では推古朝に至る王権の流れ、また政治上における推古の性格といったものから「大王天皇」「太帝天皇」の先の「○○○○ノスメラミコト」を想定できないか――そう思って薬師像銘を見直すと、直接関係のないことながら、おかしな点に気づきます。


池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳 / 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 / 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然 / 当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天 / 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

 「池邊大宮治天下天皇」が丙午年に病気になったとき「大王天皇」と「太子」を呼んで「……」と誓願したが、崩御されて出来なかったので「小治田大宮治天下大王天皇」と「東宮聖王」が遺志にそって丁卯年に……。

 用明が「池邊大宮治天下天皇」であった時点ですでに推古が「大王天皇」であったかのような書き方がされています。

 「いや、それは」……おかしな考え方で、ここで推古を「大王天皇」と表記していてもそれはその人の最終的な肩書、最高位にあったときの地位呼称で代表させて呼んでいるだけで、この時点で推古が「大王天皇」だと言っているわけではない。じっさい『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にも、「後岡基宮御宇天皇」斉明の臨終の場面で「この寺をだれに授けてきたんだと “先帝” 舒明に問われたら何と答えたらいいか」と斉明が憂えたところ、「近江宮御宇天皇」天智が「 “開” 伊(開=天智が)、モトドリに墨刺しを差し肩に「鉝」(ノコギリ?)をかつぎ腰に斧を差して造ります」と申し上げ、 “仲天皇” (ナカツスメラミコト? のちほど考えます)も「私もわが “妋” (せ。夫を意味するとの説も、兄を意味するとの説もあります)とともに飯炊きとなってお造りします」などと申し上げたので、斉明は手を打って喜んで崩御したとある。「後岡基宮御宇天皇」臨終のさいに天智が「近江宮御宇天皇」とあるけれどじっさいに天智が即位したのはその7年後で、この時点で天智が天皇だったと言っているわけじゃない。天智という人を、最終的な、最高位の「近江宮御宇天皇」という名称で代表させて呼んでいるだけであって、天智を「天智」と称しているのと同じことだ。

 ……そんな反論があるかもしれません。

 しかし、もしそうであるなら初出こそ「小治田大宮治天下大王天皇」とフルの名称で表記し、後出は「大王天皇」という省略した表記で済ますというのが普通ではないでしょうか。

 じっさいそうしている資料があります。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』がそれで、「初飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位。号曰田村皇子。是時小治田宮御宇太帝天皇。召田村皇子。以遣飽浪葦墻宮。令問廐戸皇子之病。(中略)此道場〈乎〉欲成大寺營造。伏願此之一願。恐朝庭譲獻〈止〉〈支〉。太皇天皇受賜已訖。(中略)後時天皇臨崩日之、召田村皇子遺詔。(後略)」、初出を「小治田宮御宇太帝天皇」とし、次が「太皇天皇」で、最後には「天皇」だけになっています。「太帝」が「太皇」と変わっているのは同語反復を避けるためでしょうか。

 また法隆寺金堂で薬師像の西隣にある釈迦三尊像の光背銘にも、廐戸が初出で「上宮法皇」と表記されたのち(「尺寸王身」の「王」を除き)2度目には「法皇」と省略された形になっており、膳(かしはで)氏出身の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)と思われる女性についても初出が「干食王后」で2度目は「王后」だけになっています。最終的な称号で代表させて記述するというのなら、『大安寺-』やこの釈迦三尊像銘のような表記が一般的なのではないでしょうか。

 薬師像銘のように初出が「大王天皇」で後出が「小治田大宮治天下大王天皇」というのは、これとはいっしょに見なせません。時間的な流れにそって肩書も変化したとの意識があるのでは? 用明が「池邊大宮治天下天皇」だったときに推古は「小治田大宮治天下」ではなかったけれどすでに「大王天皇」ではあった、そして廐戸は「太子」だった。用明没後の丁卯年には推古は「小治田大宮治天下大王天皇」となっており廐戸は「東宮聖王」だった……そういった意識のもとに書かれた銘文だと思うのです。

 あるいは「大王天皇」と「小治田大宮治天下大王天皇」とを別人と見るという手もあるかもしれません。大山誠一さんは『〈聖徳太子〉の誕生』の中で薬師像銘について「病気の用明天皇が、大后(正妻のこと)の穴穂部間人王ではなく、妹の推古を召したのも不自然ではなかろうか」としておられますが、先の「大王天皇」がじつは用明皇后の穴穂部間人だったとしたら……。そういったウルトラCをどなたか提示されないでしょうか。

 「大王天皇」「太帝天皇」といった称号はもちろん『日本書紀』には見えていません。しかし用明在位のうちに推古が「大王天皇」、「○○○○ノスメラミコト」といった地位にあったと考えるとしっくりと来るような記述はあるのです。

 敏達崩御から崇峻即位にいたるあたりの『日本書紀』の記述をざっと見てみます。

 敏達崩御後、穴穂部皇子(あなほべのみこ。用明皇后の穴穂部間人皇女の同母弟で廐戸の叔父)が「炊屋姫皇后」(かしきやひめのきさき。推古)を「姧」するため殯宮(もがりのみや。「殯」は一種の葬送儀礼のようです)に乱入しようとした。このときは敏達の寵臣である三輪君逆(みわのきみさかふ)に妨害されるのですが、天下を狙う穴穂部は逆の無礼を馬子・守屋に訴え、逆の討伐を口実に守屋とともに磐余池辺(いはれのいけのへ。用明の宮の所在地)を包囲した。このさいは馬子の諫止を受けて穴穂部は実力行使を思いとどまったように見えますが、逆は守屋に討たれてしまいます。以来「炊屋姫皇后」と馬子は穴穂部を恨むようになった。

 翌用明2年4月、用明は「新嘗」(にひなへ。即位儀礼の一種かと思われ、本来11月に行われるべきもののようです)を行った当日に発病して宮に帰り、仏教に帰依することの可否を群臣に諮ったところ、守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は反対し馬子は賛成した。そこに「皇弟皇子」(すめいろどのみこ。穴穂部皇子)が「豊国法師」(とよくにのほふし)なる人を連れてきて守屋が激怒したなどといったエピソードがあり、また勝海は太子彦人皇子(ひつぎのみこひこひとのみこ。敏達と広姫の間の長男である押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子(たけだのみこ。敏達と推古の間の長男)の像をつくって呪ったが、事の成りがたきを悟って彦人皇子に寝返り、退出するところを舎人(とねり)の迹見赤檮(とみのいちひ)なる人に待ち伏せされ討たれてしまった――といった話も見えます。

 用明崩御後、守屋は兵士らに示威行動をさせたり、狩猟を口実に穴穂部を天皇にしようと図ったりしたかのように描かれますが、その陰謀が漏れ、機先を制して馬子らは6月に「炊屋姫尊」推古を奉じて穴穂部と宅部皇子(やかべのみこ。宣化の子とあるが系譜不明。穴穂部と親しかったと見える)を誅殺せよとの詔を出し、結局穴穂部・宅部は討たれます。7月には馬子と泊瀬部皇子(はつせべのみこ。崇峻)・竹田皇子・廐戸皇子らの皇子たち、それに諸豪族の連合軍が物部守屋を相手に戦い、最終的に守屋が討たれて物部本宗家は滅亡します。14歳くらいの廐戸がみずからつくった四天王像を頭につけて「勝ったら護世四王のおんために寺を造ります」と戦勝祈願したなどといった話も、この戦いのさいの話として見えています。

 戦後の8月、「炊屋姫尊」推古と群臣とが崇峻に勧めて即位させた――と見えます。

 ……ざっとこんなところですが、注目すべきは崇峻紀に「炊屋姫尊」の表記で見える2例の記事かと思われます。1例目は「六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真嚙曰、汝等厳兵速往、誅殺穴穂部皇子与宅部皇子(後略)」、馬子らが推古を奉じて穴穂部・宅部両皇子誅殺を「詔」しています。

 ここは素直に読めば「蘇我馬子宿禰等……詔……」と、馬子らが「詔」を出したように読めるところで、本来天皇のお言葉・命令である「詔」を臣下が出したとなればたいへんですが、それも「炊屋姫尊」推古を奉じたことで、その権威を背景として可能になったということでしょう。しかしこの「炊屋姫尊」がすでに「大王天皇」といった存在であったとすれば、「詔」というのも無理なく解釈できるように思うのです。

 2例目は「八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊与群臣、勧進天皇、即天皇之位(後略)」、「炊屋姫尊」推古と群臣とが「天皇」崇峻に勧めて即位させたとする記事です。「群臣」とともに「炊屋姫尊」が特記されています。ここを「大王天皇」と置き換えると……「大王天皇」と群臣とが勧めて「天皇」を即位させたなどといった妙なことになりますが、それは「天皇」は1人でなければならないという先入観から来ることでしょう。ここでも推古の権威の強さのようなものが際立っています。

 薬師像銘が推古を「大王天皇」と記す用明の時代については、『日本書紀』では「炊屋姫皇后」推古を穴穂部皇子が「姧」しようとしたなどという不道徳な印象のエピソードに登場しますが、じつはこのあたりの時代、こういった記述はほかにもあるのです。

 欽明紀2年3月の、欽明が5人の妃(みめ)をいれたとする記事に、筆頭に挙げられている堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目の娘)所生の長女(用明のすぐ下の妹)として磐隈皇女(いはくまのひめみこ。分注に夢皇女ともいったとあります)という人が見えますが、彼女は「初侍祀於伊勢大神。後坐姧皇子茨城解」――はじめ伊勢斎宮の前身のような地位にあったが、のち「皇子茨城」、茨城皇子(うまらきのみこ)なる人に「姧」されたため役を解かれたとあります。その茨城皇子とはどういう人かというと、その数行あとに見えています。欽明の妃の2番目に堅塩媛の同母妹の小姉君(をあねのきみ)が挙がっていますが、彼女の長男が茨城皇子です。

 磐隈皇女が堅塩媛の娘で茨城皇子が小姉君の息子、「炊屋姫皇后」推古が堅塩媛の娘で穴穂部皇子が小姉君の息子といった関係になっています。この逆のパターンというわけではありませんが、堅塩媛の息子の用明と小姉君の娘の穴穂部間人との間に廐戸皇子以下の兄弟が誕生しています。

 また敏達紀7年3月壬申(5日)には菟道皇女(うぢのひめみこ。敏達と広姫との間の娘で押坂彦人大兄皇子の妹、のようです)を「侍伊勢祠」、やはりのちの斎宮のような地位につけたと見えますが、「即姧池辺皇子。事顕而解」――池辺皇子(いけへのみこ)に「姧」され、露見してやはり役を解かれたとあります。なお池辺皇子について古典文学大系は「他に見えず」とし、『元興寺縁起』は即位前の用明を「池辺皇子」としていますが、『日本書紀』ではこれを除けば「大兄皇子」「橘豊日皇子」としか見えず、また用明が池辺に宮を構えたのが即位後だとすれば、即位前の敏達を「他田皇子」と書く『元興寺縁起』の性格から見ても疑わしさは残ります(敏達も即位後の敏達4年になって「他田宮」に移っているのです)。

 ともかく、こんな例が欽明-用明の時代に3件も記され、しかも男性のほうはとくに処罰されたとも見えず、女性のほうもせいぜいのちの斎宮の前身的な役を解かれただけで、それ以上の処分があったようにも見えませんから、儒教的な道徳意識が普及する以前はそんなに不道徳な行為とは見なされなかったのではないでしょうか。うがった見方をすれば、磐隈皇女と茨城皇子の例、菟道皇女と池辺皇子の例は、斎宮的な役を解かれたという事実があったから記載されただけで、そういった事態を伴わないため記録されなかった例はじつは多かったのではないか、などとも疑います。

 だいたい穴穂部の行為が不道徳であったなら、それこそ馬子が推古を奉じてたちどころに穴穂部誅殺の詔を出してもいいのでは? そんな点からも穴穂部の行為は当時そんなに不道徳なこととは意識されなかったのではないかと考えています。

 『日本書紀』の書かれた8世紀初頭にはある程度儒教的、と言っていいのかわかりませんが、外来の倫理観が浸透していたでしょうし、とくに文筆を業とするような人々の用いたテキストには儒教関係の書物も多かったでしょうから、こういった行為を不道徳なものとする意識のもとに書かれている可能性が高いように思えます。また用明紀から崇峻紀にいたるこの一連の話自体、物語的な潤色が加えられている可能性もあるのではないでしょうか。そういったフィルターを取り払って淡々と事実を追っていく必要があると思います。事実かどうかもわかりませんが。

 さらに――もしも穴穂部の殯宮への乱入が成功し、またもしも推古が配偶関係を認めてしまったとすれば、穴穂部は敏達の権威を受け継ぐことができたのではないか。少なくとも穴穂部にはそんな考えがあったのではないか――。そんなふうに考えてしまいます。少し視点を変えれば意外と大きな推古像が浮かんでくる。薬師像銘が「大王天皇」と記すような推古の地位は、穴穂部に関するこんな記述からもうかがえるように思うのです。