いぜん LCV 様のサーバーをお借りして載せていました「大王天皇」、引っ越しついでにサーバーもこちらに転居しましたので、こちらに載せます。
正直言えば、Weblogの名を語りながら、掲載するコンテンツがありません。「内容がないよー」などとくだらないことを言っている場合ではなくて……。
これ、当の本人がこちらに移転してブログにアップしていることを証明できるのかな? ……まぁいいや、だれもこんなものを自分のブログだと偽りはしないだろうし。
最近はダイオウイカとかダイオウグソクムシとか大王ばやりですが、1400年前の日本……というか倭国に「大王天皇」という人がいました。いたそうです。いたとする資料があります。法隆寺金堂の金銅薬師如来坐像の光背銘に見えます。
「大王天皇」とは推古天皇のことを指します。
池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳 / 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然 / 当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天 / 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
「池邊大宮治天下天皇」(用明天皇)がご病気となった折の丙午年(≒586)に、「大王天皇」(推古天皇)と「太子」(廐戸皇子。聖徳太子のこと)を召されて誓願され、「私は病気が快復するよう望むので、寺を造り薬師像を造って仕えまつりたい」と詔された。しかし崩御されて造ることができなかったため、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古)および「東宮聖王」(廐戸)が「大命」、オホミコトをうけたまわって丁卯年(≒607)に仕えまつった――といった解釈でいいのでしょうか。
かつてはこの銘文などをもとに、津田左右吉さんが「天皇」号の使用について推古朝ごろに開始されたものと見ておられたようですが、その後この銘文にも像自体の制作年代にも、さらには「薬師」像という銘文の主張にさえ疑問符がついてしまいました。
法隆寺金堂ではこの像の西に釈迦三尊像が安置されますが、釈迦三尊像は鋳造のさいに銅が回りきらず後から直したような箇所が見られるのだそうで、これに対しこの薬師像は1回の鋳造のみで仕上げており、技術的に進歩している、つまり年代の下がるものだ……といった話をどこかで拝見した記憶があります。仏像の様式などはまるでわからないのですが、その他釈迦三尊像と比較して丸みを帯びてきているなどといった話もうかがうと、たしかに時代の下るものなのだろうとも思えてきます。
梅原猛さんは『隠された十字架 -法隆寺論-』(新潮社 1972)の中で、まず戦前に福山敏男さんが「法隆寺の金石文に関する二三の問題」(1935)でこの光背銘の年代について疑ったことを引用したうえで、この光背銘は天平19年(≒747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財帳部分に見えるこの薬師像銘についての記述から逆に作り出されたものだ、といった説を述べておられます。『法隆寺-』のその資財帳部分に見えるこの像銘の記述というのは「金埿銅薬師像壱具 / 右奉為池辺大宮御宇 天皇 / 小治田大宮御宇 天皇 / 并東宮上宮聖徳法王、丁卯年敬造請坐者」(「 / 」は改行)といったものですが、梅原さんはこれを「用明天皇と推古天皇と聖徳太子のために、丁卯年に造られた」と読んで、現在の金堂薬師像銘のほうは天平19年より後に『資財帳』の文から導いた「巧みな文献の偽造」であるとされ、『資財帳』に見える像銘の「丁卯年」については天智6年と見ておられます。
また大山誠一さんも『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館 1999)の中で、「天皇」「東宮」「聖王」といった語の存在することや、用明が大后の穴穂部間人王でなく妹の推古を召すことの不自然さなどを挙げて、この銘文の成立時期の上限については天皇号が採用されたとされる飛鳥浄御原令の持統3年(≒689)、下限を『法隆寺資財帳』の天平19年とされています。なお大山さんは天皇号については「今日では、中国で、唐の高宗の上元元年(六七四)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代わったが、その情報が、天武朝に日本に伝わり、持統三年(六八九)に編纂された飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説となっている」とされ、つづけて「最近(一九九八年)、奈良の飛鳥寺の近くの飛鳥池遺跡から「天皇」の語を記した木簡が出土したが、その年代は、天武・持統朝ということで、最古の使用例と報道された」と記されています。
福山敏男さんの「法隆寺の金石文に関する二三の問題」では、まず「天皇」の語について、江田船山銀錯銘大刀の「治天下獲□□□歯大王……」や隅田八幡神社人物画像鏡銘の「癸未年八月日十大王年……」、『釈日本紀』所引『上宮記』の「伊久牟尼利比古大王」「伊波礼宮治天下乎富等大公王」、『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』の「他田宮治天下大王」の例を挙げて、古い時代にはいずれも「大王」だったとし、「天皇」の「正確な記文に見ゆる最初のものは天智天皇五年のものと推定される野中寺藏彌勒像の台座銘に「中宮天皇」とあるものである」とされ、この薬師像銘を推古朝のものと見ることに否定的見解を示されています(また「天皇」の語の見える「天壽國曼荼羅」――天寿国繍帳についても同様に見ておられます)。
ついで「大王天皇」の語にも疑いを持たれ、「大王」と「天皇」とは「全くの同義語」であり、この文の書かれたころにはもっぱら「天皇」が用いられ「大王」は用いられなかったであろうと推測されたうえで「從つて推古天皇のことを「大王」と記した古い記文などによつて、漫然と「大王天皇」なる語を構成したものであらう」と記されます。「聖王」の語についても境野黄洋さんの「太子薨去後世人が呼んだ尊称」と見る説に賛同され、またこの薬師像銘が野中寺(やちゅうじ)弥勒半跏像銘に類似することを指摘されています。
さらにはこの像が「薬師像」であることも不審とされ、仏教伝来以降釈迦-阿弥陀-弥勒の順に造像が見られ、薬師像は天武朝になってようやく現れること、中国でも同様の傾向にあることなどを数多くの例を挙げて述べておられます。そして用明・推古・聖徳太子の発願による勅願寺だと訴える「縁起文」である薬師像銘の成立年代を「天武朝から持統朝にかけて、現在天皇の御願として、藥師寺が莊麗な形で造營されつゝあつた頃、又はそれ以降」といった形で見ておられるようです。
この後では、用明の死に際し鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が用明のために出家して坂田寺の丈六仏像と寺とを造ると申し出たという『日本書紀』用明紀の話を引き、『日本書紀』が使ったであろう坂田寺縁起を、薬師像銘もまた発展させて用いたのではないかとの見通しを示しておられます。
ちなみに野中寺の銅像弥勒菩薩半跏思惟像銘を掲げておきます。
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞坐之時誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
この銘文が円盤状の台座の側面、框(きょう・かまち)といわれる部分に1行2字で彫り込まれています。
ですから……法隆寺金堂の薬師像銘は、いうならばニセモノです。
私も「丁卯年」、小野妹子が遣隋使として隋に向かった推古15年に書かれたものだとは思っていません。ただ、銘文が後世の新しいものだからといって造像の年代まで天武・持統朝以降に下げるというのはどうでしょうか。福山さんも「この文が何時書かれたのか又は何時こゝに彫り込まれたのかは記されてゐないから、推古朝の丁卯年のことゝも考へられる一方、丁卯年を多少、又は遙かに降つた頃、この像の「縁起文」として書かれ、こゝに彫られたと見ても少しも差支へはない」と述べておられます。
法隆寺は1949年(昭和24年)金堂が火災に遭いましたが、そのさい焼損した金堂壁画と薬師寺金堂の薬師三尊像、それにこの薬師像とを見比べて、どうなるだろうかなどと思ってしまいます。その昭和24年の火災……ではなく天智9年の火災のおりに、もとの斑鳩寺だか法隆寺だかの金堂の本尊も焼けてしまったのかもしれない。その後、由来も不明なら造像銘もない、どこの馬の骨ともしれぬ古い仏像を持ってきて新築成った現在の法隆寺金堂に安置。台座はなぜか斑鳩宮の戸板などから作った古いものが残っていたのかもしれません。それ以後に、口伝などの形で伝わっていた由来を刻銘した――などといった可能性も考えられないではないでしょう。「馬の骨」は言い過ぎかもしれませんが。
個人的には、福山さんの説は非常に説得力を持って響きます。しかし「推古天皇のことを「大王」と記した古い記文などによつて、漫然と「大王天皇」なる語を構成したものであらう」とされるのには異論があります。福山さんはなぜか『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)を挙げておられませんが、その『大安寺-』の縁起部分の冒頭に、やはり推古が「太帝天皇」「太皇天皇」などといった形で見えているのです。
初飛鳥岡基宮御宇 天皇之未登極位 / 号曰田村皇子是時小治田宮御宇 / 太帝天皇召田村皇子以遣飽浪葦墻宮 / 令問廐戸皇子之病勅 病状如何思欲 / 事在耶樂求事在耶復命 蒙天皇之頼 / 無樂思事唯臣〈伊〉羆凝村始在道場仰願 / 奉為於古御世御世之帝皇將来御世御 / 世御宇 帝皇此道場〈乎〉欲成大寺營 / 造伏願此之一願恐 朝庭譲獻〈止〉奏〈支〉 / 太皇天皇受賜已訖又退三箇日間皇 / 子私參向飽浪問御病状於茲上宮 / 皇子命謂田村皇子曰愛哉善哉汝 / 姪男自来問吾病矣為吾思慶可奉財 / 物然財物易亡而不可永保但三寳之法不 / 絶而可以永傳故以羆凝寺付汝冝承 / 而永傳三寳之法者田村皇子奉命大 / 悦再拜白曰唯命受賜而奉為遠皇祖 / 并大王及継治天下 天皇御世御世不絶 / 流傳此寺仍率將妻子以衣齋褁土營成 / 而永興三寳皇祚無窮白後時 天皇臨 / 崩日之召田村皇子遺詔皇孫 朕病篤 / 矣令汝登極位授奉寳位與上宮皇子 / 譲 朕羆凝寺亦於汝〈毛〉授〈祁利〉此寺後世流 / 傳勅〈支〉仍即 天皇位十一年歳次己亥春 / 二月於百済川側子部社〈乎〉切排而院寺家 / 建九重塔入賜三百戸封号曰百済大寺此時社 / 神怨而失火焼破九重塔並金堂石鴟尾 / 天皇將崩賜時勅太后尊〈久〉此寺如意造建 / 此事為事給仕耳尓時後岡基宮御宇 天 / 皇造此寺司阿倍倉橋麻呂穂積百足二人任 / 賜以後 天皇行車筑志朝倉宮将崩賜 / 時甚痛憂勅〈久〉此寺授誰參来〈止〉先帝待 / 問賜者如何答申〈止〉憂賜〈支〉尓時近江宮 / 御宇 天皇奏〈久〉開〈伊〉髻墨刺〈乎〉刺肩負 / 鉝腰刺斧奉為奏〈支〉仲天皇奏〈久〉妾〈毛〉我 / 妋等炊女而奉造〈止〉奏〈支〉尓時手柏慶賜 / 而崩賜之以後飛鳥浄御原宮御宇 / 天皇二年歳次癸酉十二月壬午朔戊戌造寺司 / 小紫冠御野王小錦下紀臣訶多麻呂二人任 / 賜自百済地移高市地始院寺家入賜七百 / 戸封九百三十二町墾田地卅万束論定出擧 / 稲六年歳次丁丑九月康申朔丙寅改高市 / 大寺号大官大寺十三年 天皇寝膳不安 / 是時東宮草壁太子尊奉 勅率親王諸王 / 諸臣百官人等天下公民誓願賜〈久〉大寺營 / 造近今三年天皇大御壽然則大御壽更 / 三年大坐坐〈支〉以後藤原宮御宇 天皇朝 / 庭〈尓〉寺主恵勢法師〈乎〉令鑄鍾之尓後藤原 / 朝庭御宇天皇九重塔立金堂作建並 / 丈六像敬奉造之次平城宮御宇 天皇天 / 平十六年歳次甲申六月十七日九百九十四町 / 墾地入賜〈支〉(後略)
(『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』縁起部分。『大安寺の美術』 大安寺 2010 の写真版から起こしましたが、不明の字等については群書類従版を参考にさせていただいた部分があります。不正確なもので、あくまで参考に掲げました)
天平18年(≒746)10月、寺院を管轄する僧綱所という役所から各寺院に対し「寺院の由来と所有する財産目録を記録し提出せよ」との通達があり、それを受けて各寺院はその由来である「縁起」と財産目録の「資財帳」を作成、翌天平19年2月に提出した――。『○○寺伽藍縁起并流記資財帳』というのはこういった由来のもののようで、そういった事情は『続日本紀』には記録されず各『-伽藍縁起并流記資財帳』の巻末に記されているようです。現在伝わるのは大安寺・法隆寺・元興寺のものだけ。しかし残念なことに現在伝わる『元興寺縁起』(もっとも題には「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」とあるようですが)については、本来の『元興寺縁起』を後世に書き改めたものと見る説があるのだそうです。
もっとも福山さんは別の論文でこの『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』についても批判的に見られていて、その中に見える熊凝寺についても架空の寺としておられるそうです。残念ながらその論文を拝見していないのですが、だとすればこの「太帝天皇」「太皇天皇」についても否定的に見ておられるか、あるいは法隆寺の薬師像銘の「大王天皇」から発展させた程度のものとして処理されているのでしょうか。
薬師像銘の「大王天皇」、『大安寺-』の「太帝天皇」「太皇天皇」に類する表現は『元興寺縁起』にも「大々王」と見えています。しかしその「大々王」は文中で年代を追って「大々王」→「大后大々王」→「大々王天皇(命)」などと変化していくようで、固有名詞として扱われているように見え、どうやら本来の形をとどめてはいないように思われます。
薬師像銘に「小治田大宮治天下大王天皇」、『大安寺-』に「小治田宮御宇太帝天皇」とあるところを見れば「大王天皇」「太帝天皇」は固有名詞でなく称号、タイトルだったと見るべきでしょう。漫然と「大王天皇」なる語を構成したわけでなく、口伝で「○○○○ノスメラミコト」などと伝わっていたものに漢字表記を当てるさい、ある人は「大王天皇」と、またある人は「太帝天皇」「太皇天皇」などと表記した、といったことではないでしょうか。もしくは……『元興寺縁起』にも「大々王天皇命」などとあるところからすれば、もともとは「○○○○ノスメラミコト」に対し後世一般的に「大王天皇」といった表記が当てられていたが、「大王」と「天皇」とは同じことだなどといった批判があり、それを嫌って「太帝天皇」「太皇天皇」などと……やめておきます。
ちなみに『日本書紀』孝徳紀の大化元年8月癸卯(8日)には大化の僧尼への詔などと呼ばれるものが見えますが、その中に「……於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百済明王……於訳語田宮御宇天皇之世……於小墾田宮御宇之世……」と、推古のみ「小墾田宮御宇之世」、「天皇」をつけていない記述があるようです。もちろん写本によっては「小墾田宮御宇天皇之世」としているものもあるようですが、有名な写本でも「小墾田宮御宇之世」、「天皇」をつけないものが複数あるらしく、『日本書紀』原本にもともとなかったもののように思われます。
この例などは――引用元の仏教関係の資料には「小治田宮治天下大王天皇」的な表記で見えていたものを、原稿に写す段階で「治天下」は「御宇」に直したが「大王天皇」は直し忘れていた。これに「大王」を削除する修正が入ったところ、清書のさい誤って「大王天皇」全体を削除してしまった――そんな経過があったのではないかと想像しています。いや、「小治田」も「小墾田」に改めたといったことがあったか……。どなたか孝徳紀の文を「於小治田宮御宇之世」だと書いて何年も平気でほったらかしているバカな人もいますが(いましたが)。
その少しあとの大化2年2月戊申(15日)、蘇我右大臣(石川麻呂)が先に設置した「鍾匱」への反応について読み上げる記事には「明神御宇日本倭根子天皇」、「日本倭」という奇妙な表記が見えます。これについて古典文学大系では「日本倭」全体で「やまと」と読ませていますが、これも原稿では「倭根子天皇」などとあったものに「倭」を「日本」と直せとの修正が入り、清書の段階で「日本」は加えたものの「倭」のほうは削除し忘れた……などといった経過があったのではないか。そんなふうに思います。
私個人としては「大王天皇」「太帝天皇」といった表記の先に「○○○○ノスメラミコト」といった話し言葉、発音としての語の存在を想定していますので、その「○○○○ノスメラミコト」が何だったのかを知りたいのですが、「オホキミノスメラミコト」「オホキミカドノスメラミコト」……字面からでは判断できません。「大王」「太帝」などの意味について考えるのも、結局字面を追っていくのと同じことです。
では推古朝に至る王権の流れ、また政治上における推古の性格といったものから「大王天皇」「太帝天皇」の先の「○○○○ノスメラミコト」を想定できないか――そう思って薬師像銘を見直すと、直接関係のないことながら、おかしな点に気づきます。
池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳 / 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 / 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然 / 当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天 / 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
「池邊大宮治天下天皇」が丙午年に病気になったとき「大王天皇」と「太子」を呼んで「……」と誓願したが、崩御されて出来なかったので「小治田大宮治天下大王天皇」と「東宮聖王」が遺志にそって丁卯年に……。
用明が「池邊大宮治天下天皇」であった時点ですでに推古が「大王天皇」であったかのような書き方がされています。